行列とその演算(3)
2022-5-23
行列の積の性質
行列とその演算(2)では「積」と呼ばれる演算を定義しました。 ここでは積の性質について説明します。
積はいつでも作れるわけではない
普通の数の世界では、2つの数の積を必ず作ることができます。しかし、行列の世界では話はそんなに単純ではありません。
行列の積の定義を思い出してみましょう。行列 \(A\) と行列 \(B\) の \((i,j)\) 成分は \(A\) の第 \(i\) 行ベクトルと \(B\) の第 \(j\) 列ベクトルの積として作られる数になっているのでした。そして行ベクトルと列ベクトルの積をつくることができるのは行ベクトルの成分数と列ベクトルの成分数が等しいときだけでした。このことから次のことがわかります。
2つの行列 \(A\) と \(B\) があり、\(A\) は \((l,s)\) 型、\(B\) は \((t,n)\) 型の行列であるとします。 \(A\) と \(B\) の積 \(AB\) が作れるのは、\(s=t\) のとき、つまり \(A\) の列数と \(B\) の行数が等しいときだけです。
行列 \(A\) と 行列 \(B\) の積 \(AB\) が作れるときでも、\(BA\) が作れるとは限りません。
例 \[ A=\left( \begin{array}{rr} 2 & 5 \\ 3 & 5 \\ -3 & 1 \end{array}\right), \]
\[ B=\left( \begin{array}{rrrr} 4 & 2 & -3 & 0\\ -1 & 3 & 2 & -2 \end{array}\right) \] とすると、\(A\) は \((3,2)\) 型行列、 \(B\) は \((2,4)\) 型行列です。
まず、積 \(AB\) をつくることができるか考えてみましょう。\(A\) の列数と \(B\) の行数はどちらも \(2\) で等しくなっています。ですから積 \(AB\) をつくることができます。
次に、積 \(BA\) をつくることができるか考えてみましょう。\(B\) の列数は \(4\) で \(A\) の行数は \(3\) ですから等しくありません。つまり無理ということになります。
行列の積は一般に交換可能ではない
普通の数の世界では2つの数 \(a\) と \(b\) に対し、\(a \times b\) と \(b \times a\) の結果は必ず等しくなります。しかし、行列の世界では話はそんなに単純ではありません。
たとえ、行列 \(A\) と 行列 \(B\) の積 \(AB\) と \(BA\) が両方作れるときでも、\(AB\) と \(BA\) は一般には等しくなりません。(もちろん、たまたま等しくなる場合もあります。)
例 \(A=\left(\begin{array}{cc} 1 & 1 \\ 0 & 1 \end{array}\right), B=\left(\begin{array}{cc} 1 & 0 \\ 1 & 1 \end{array}\right)\) のとき、 \[ \begin{align} AB &= \left(\begin{array}{cc} 1 & 1 \\ 0 & 1 \end{array}\right) \left(\begin{array}{cc} 1 & 0 \\ 1 & 1 \end{array}\right)\\[6pt] &= \left(\begin{array}{cc} 2 & 1 \\ 1 & 1 \end{array}\right) \end{align} \]
\[ \begin{align} BA &= \left(\begin{array}{cc} 1 & 0 \\ 1 & 1 \end{array}\right) \left(\begin{array}{cc} 1 & 1 \\ 0 & 1 \end{array}\right)\\[6pt] &= \left(\begin{array}{cc} 1 & 1 \\ 1 & 2 \end{array}\right) \end{align} \] となるので \(AB\) と \(BA\) は等しくなりません。
結合法則と分配法則
普通の数の世界では3つの数 \(a\) と \(b\) と \(c\) に対して、\((a\times b)\times c\) と \(a\times(b\times c)\) は必ず等しくなります。この事実は積に関する結合法則と呼ばれているのでした。
また、\(a\times(b + c)\) と \(a\times b + a\times c\) は必ず等しくなり、\((a + b) \times c\) と \(a\times c + b\times c\) は必ず等しくなります。この事実は積に関する分配法則と呼ばれているのでした。
ところで、行列の世界でも、積に関してこのような法則は成り立つのでしょうか?
結合法則
命題
\(A\) が\((k,l)\) 型、\(B\) が \((l,m)\) 型、\(C\) が\((m,n)\) 型の行列であれば、\((AB)C\) と \(A(BC)\) を作ることができ、どちらも \((k,n)\) 型の行列になりますが、このとき必ず \[(AB)C=A(BC)\] が成り立っています。
証明
すべての \(p,s\) について、\((AB)C\) の \((p,s)\) 成分と \(A(BC)\) の \((p,s)\) 成分を計算して比べてみることにします。そのために、まず
とおくことにします。
では、それぞれの成分を計算してみることにしましょう。
\((AB)C\) の \((p,s)\) 成分
まず、\[ \begin{align} AB\,\text{の}\, (p,r) \,\text{成分} &= a_{p1}b_{1r}+a_{p2}b_{2r} + \cdots + a_{pl}b_{lr}\\[6pt] &= \text{可能な範囲で}\,q\,\text{を変えて}\,a_{1q}b_{qr}\,\text{をたしたもの}\\[6pt] &= \sum_{q=1}^{l}a_{pq}b_{qr} \end{align} \]
\[ \begin{align} (AB)C\,{の} (p,s)\, \text{成分} &= \text{可能な範囲で}\, r\, \text{を変えて}\,(AB\text{の}(p,r) \text{成分}\times c_{rs})\, \text{をたしたもの}\\[6pt] &= \text{可能な範囲で}\, r\, \text{を変えて}\,\{(a_{p1}b_{1r}+a_{p2}b_{2r} + \cdots + a_{pl}b_{lr})\times c_{rs}\}\, \text{をたしたもの}\\[6pt] &=\text{可能な範囲で}\, r\, \text{を変えて}\,(a_{p1}b_{1r}c_{rs}+a_{p2}b_{2r}c_{rs} + \cdots + a_{pl}b_{lr}c_{rs})\, \text{をたしたもの}\\[6pt] &=\text{可能な範囲で}\, r\text{と}q\, \text{を変えて}\,a_{pq}b_{qr}c_{rs}\, \text{をたしたもの}\\[6pt] &=\sum_{1\leq q \leq l\\ 1 \leq r \leq m }a_{pq}b_{qr} \end{align} \]
となります。
\(A(BC)\) の \((p,s)\) 成分
まず、\[ \begin{align} BC\,\text{の} \,(q,s) \,\text{成分} &= b_{q1}c_{1s}+b_{q2}c_{2s} + \cdots + b_{qm}c_{ms}\\[6pt] &= \text{可能な範囲で}\,r\,\text{を変えて}\,b_{qr}c_{rs}\,\text{をたしたもの}\\[6pt] &= \sum_{r=1}^{m}b_{qr}c_{rs} \end{align} \]
\[ \begin{align} A(BC)\,{の} (p,s)\, \text{成分} &= \text{可能な範囲で}\, q\, \text{を変えて}\,(a_{pq} \times BC\text{の}(q,s) \text{成分})\, \text{をたしたもの}\\[6pt] &= \text{可能な範囲で}\, q\, \text{を変えて}\,\{a_{pq} \times (b_{q1}c_{1s}+b_{q2}c_{2s} + \cdots + b_{qm}c_{ms})\}\, \text{をたしたもの}\\[6pt] &=\text{可能な範囲で}\, q\, \text{を変えて}\,(a_{pq}b_{q1}c_{1s}+a_{pq}b_{q2}c_{2s} + \cdots + a_{pq}b_{qm}c_{ms})\, \text{をたしたもの}\\[6pt] &=\text{可能な範囲で}\, q\text{と}\,r\, \text{を変えて}\,a_{pq}b_{qr}c_{rs}\, \text{をたしたもの}\\[6pt] &=\sum_{1\leq q \leq l\\ 1 \leq r \leq m }a_{pq}b_{qr} \end{align} \]
となります。
以上の計算結果を見比べると、 \[ A(BC)\,{の} (p,s)\, \text{成分} = A(BC)\,{の} (p,s)\, \text{成分} \] が成り立っていることがわかります。分配法則
命題
- \(A\) が\((k,l)\) 型、\(B\) が \((l,m)\) 型、\(C\) が\((l,m)\) 型の行列のとき、\(A(B+C)\) と \(AB+AC\) を作ることができ、どちらも \((k,m)\) 型の行列になりますが、 \[A(B+C) = AB+AC\] が成り立ちます。
- \(A\) が\((k,l)\) 型、\(B\) が \((k,l)\) 型、\(C\) が\((l,m)\) 型の行列のとき、\((A+B)C\) と \(AB+BC\) を作ることができ、どちらも \((k,m)\) 型の行列になりますが、 \[(A+B)C = AB + BC\] が成り立ちます。
これらの法則が成り立つことは、交換法則の証明と同じように、左辺と右辺の成分を計算して比べることにより証明できます。
念のため計算をしてみると…
ここでは \(A(B+C) = AB+AC\) を証明してみることにしましょう。
\[A = \left(\begin{array}{cccc} a_{ 11 } & a_{ 12 } & \ldots & a_{ 1l } \\ \vdots & \vdots & \ddots & \vdots \\ a_{ k1 } & a_{ k2 } & \ldots & a_{ kl } \end{array}\right),\, B = \left( \begin{array}{cccc} b_{ 11 } & \ldots & b_{ 1m } \\ b_{ 21 } & \ldots & b_{ 2m } \\ \vdots & \ddots & \vdots \\ b_{ l1 } & \ldots & b_{ lm } \end{array}\right),\, C = \left( \begin{array}{cccc} c_{ 11 } & \ldots & c_{ 1m } \\ c_{ 21 } & \ldots & c_{ 2m } \\ \vdots &\ddots & \vdots \\ c_{ l1 } &\ldots & c_{ lm } \end{array}\right)\]
\[ \begin{align} A(B+C) \text{の} (p,q) \text{成分} &= A\,\text{の第}\, p\, \text{行ベクトルと}\,B+C\, \text{の第}\,q\,\text{列ベクトルの積}\\[6pt] &=\text{可能な範囲で}\,r\,\text{を変えて}\,a_{pr}(b_{rq}+c_{rq})\,\text{をたしたもの}\\[6pt] &=\text{可能な範囲で}\,r\,\text{を変えて}\,(a_{pr}b_{rq}+a_{pr}c_{rq})\,\text{をたしたもの}\\[6pt] &=\text{可能な範囲で}\,r\,\text{を変えて}\,a_{pr}b_{rq}\,\text{をたしたもの}\,\\[6pt] &\qquad+\text{可能な範囲で}\,r\,\text{を変えて}\,a_{pr}c_{rq}\,\text{をたしたもの}\\[6pt] &=AB\,\text{の} (p,q) \text{成分} + AC\,\text{の} (p,q) \text{成分}\\[6pt] &=AB+AC\,\text{の} (p,q) \text{成分} \end{align} \]
零行列との積
普通の数の世界には \(0\) という数があり、\(a\) がどんな数でも \(a \times 0 =0,\, 0 \times a = 0\) が成り立ちます。
行列の世界では零行列 \(O\) が同じような役割を果たします。
命題
- \(A\) が \((l,m)\) の行列、\(O\) が \((m,n)\) 型の零行列のとき、 \(AO\) は \((l,n)\) 型の零行列になります。つまり、 \[AO=O\] が成り立ちます。
- \(O\) が \((l,m)\) の零行列、\(A\) が \((m,n)\) 型の行列のとき、 \(OA\) は \((l,n)\) 型の零行列になります。つまり、 \[OA=O\] が成り立ちます。
これらの法則が成り立つことは、ほぼ明らかでしょう。
スカラー倍と積
命題
\(A\) が\((k,l)\) 型、\(B\) が \((l,m)\) 型の行列、\(r\) が数のとき、\(r(AB)\) 、 \((rA)B\)、\(A(rB)\) を作ることができ、どれも \((k,m)\) 型の行列になりますが、 \[r(AB)=(rA)B=A(rB)\] が成り立ちます。
この法則が成り立つことは、ほぼ明らかでしょう。
単位行列と積
普通の数の世界には \(1\) という数があり、どんな数 \(a\) に対しても、\(a \times 1 = a,\,1 \times a =a\) が成り立ちます。 それでは行列の世界にもこれと同じような役割を果たすものがあるのでしょうか?
単位行列
行の数と列の数が等しく、対角線上には \(1\) がずらっと並び、それ以外の場所には \(0\) が並んでいる行列を単位行列といいます。そして、よく \(E\) や \(I\) であらわします。以下、単位行列を \(E\) とあらわすことにします。つまり、
\[E = \left(\begin{array}{cccc} 1 & 0 & \ldots & 0 \\ 0 & 1 & \ldots & 0 \\ \vdots & \vdots & \ddots & \vdots\\ 0 & 0 & \ldots & 1 \end{array}\right)\] です。
\(E\) が \((n,n)\) 型であることを明示したい場合は \(E_n\) と書きます。
単位行列の性質
命題
単位行列は数の世界における \(1\) の役割を果たします。 つまり、\(E_n\) が \((n,n)\) 型の単位行列、\(E_m\) が\((m,m)\) 型の単位行列のとき、どんな \((m,n)\) 型の行列 \(A\) に対しても、
\[ \begin{align} AE_n=A,\\ E_mA=A \end{align} \]
が成り立ちます。
これらの法則が成り立つことは、計算により簡単に確かめることができます。
ここでは \(AE_n=A\) が成り立つことを見ておくことにします。次の図を見てください。
左が \((m,n)\) 型の行列 \(A\) で、右が単位行列 \(E_n\) です。積 \(AE_n\) の \((i,j)\) 成分は \(A\) の第 \(i\) 行と \(E_n\) の第 \(j\) 列の積になるわけですが、\(E_n\) の第 \(j\) 列は上から \(j\) 番目の成分が \(1\) でそれ以外は全部 \(0\) です。ですから、\(A\) の第 \(i\) 行と \(E_n\) の第 \(j\) 列の積をつくると \(a_{ij}\) だけがそのまま残るわけです。つまり、\(AE_n\) の \((i,j)\) 成分は \(A\) の\((i,j)\) 成分のままになっているわけです。このことがどんな \(i,j\) の組に対しても成り立つのですから、\(AE_n=A\) となることがわかります。
クロネッカーのデルタ記号
\(i,j\) はどちらも \(1,2,\ldots, n\) という値を取ることができる変数とします。 そして、\(i\) と \(j\) の値によって決まる数 \(\delta_{ij}\) があるとします。ただし、\(i=j\) のときは \(\delta_{ij}\) の値は \(1\)、それ以外のときは \(\delta_{ij}\) の値は \(0\) であると決めます。
つまり \[ \begin{eqnarray} \delta_{ij} = \begin{cases} 1& ( i = j ) \\ 0 & ( i \neq j ) \end{cases} \end{eqnarray} \]
と定義します。 このように定義された \(\delta_{ij}\) をクロネッカーのデルタ記号といいます。 \(\delta_{ij}\) は単位行列 \(E\) の \((i,j)\) 成分になっています。
この記号は、単位行列を含む行列の計算を成分で行うときなどに役に立つことがあります。
スカラー行列と積
数 \(r\) を使って単位行列 \(E\) を $ r$ 倍した \(rE\) をスカラー行列といいます。
\[rE=\left( \begin{array}{cccc} r & 0 & \ldots & 0 \\ 0 & r & \ldots & 0 \\ \vdots & \vdots & \ddots & \vdots\\ 0 & 0 & \ldots & r \end{array} \right) \]
スカラー行列の性質
命題
スカラー行列 は普通の数の役割を果たします。 つまり、どんな \((m,n)\) 型の行列 \(A\) に対しても、 \[ A (rE_n) = rA\\ (rE_m) A = rA \] が成り立ちます。
この法則が成り立つことは、ほぼ明らかでしょう。
まとめ
行列の世界では数の世界とは違い、積について交換法則は一般に成り立ちませんが結合法則と分配法則は成り立っています。
成分がすべて \(0\) である行列を零行列といい、\(O\) という記号であらわします。零行列は成分がすべて \(0\) の行列です。積をつくることができるとき、どんな行列に対しても、零行列を左からかけようが右からかけようが結果は零行列になります。
どんな行列に対しても、積をつくることができるとき、左からかけても右からかけても結果がそのままになるような行列が存在し、単位行列と呼ばれています。単位行列は必ず行数と列数が等しく、左上から右下へ向かう対角線上にずらりと \(1\) が並びそれ以外はすべて \(0\) が並んでいる行列です。単位行列はよく \(E\) や \(I\) という記号であらわされ、特に型を明示したいとき、\((n,n)\) 型ならば \(E_n\) や \(I_n\) のようにあらわされます。